2015年4月1日水曜日

アダム、エバ、イシュ、イシャー

 
   旧約聖書のように基本教養を形成するものは、できれば簡易に、邦訳だけでわかったつもりになって済ましたいものだが、周知のとおり、古代ヘブライ語ができないと旧約聖書は読めない。あるいは、古代ヘブライ語の単語の意味と訳語とを往還し続ける解説の助けを求め続けないと。
 1987年の新共同訳聖書では、アダムの誕生は次のように訳され、アダムという命名の意味がわかるようになった。
「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命を吹き入れられた」。
 アダマ(土)→アダム(人)というヘブライ語語義が示された意義は大きい。
 アダムのあばら骨からエバが創られるのは有名な話だが、ここも新共同訳ではわかりやすい。
「これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう
 まさに、男(イシュ)から取られたものだから。」
 現代ふうに解釈すると、共通遺伝子が男女を繋いでいるとでもいう見解が創世記作家にはあったのではないか、と思われてくる。
 これに対し、一冊本ながら、多くの註釈が付き、たいていの点でわかりやすく完備しているフランシスコ会聖書研究所の『原文校訂による口語訳聖書』においては、どうしたことか、
「男から取られたのだから、これを女と名づけよう」
となっていて、この点、わかりづらい。見開きページに、「ヘブライ語では男は『イシュ』、女は『イッシャ』」と註が付けられているものの、本文に盛り込んでもよかったのではないか。
 新共同訳では、アダムがエバを命名する箇所でも、
「アダムは女をエバ(命)と名付けた。彼女がすべて命あるものの母となったからである」
 と表記されるようになった。
 フランシスコ会訳では、やはり本文には「命」を盛り込まず、
「さて人はその妻をエバと名づけた。彼女は生きるものすべての母だからである」
 と表記し、見開きページに「『エバ』という名は、『命』『生きる』というヘブライ語の語源に由来する」と註を付けている。
 エバが「命」や「生きる」という意味ならば、神がアダマ(土)からアダム(人)を創って鼻から「命の息」を吹き込んだ時、エバという単語が使われてはいなかったのか。アダムの伴侶であるエバがまだ存在していないのに、アダムを「生きる者」とさせた「命の息」がエバの息であったならば、言語表現上は円環現象が起きる。
 古代ヘブライ語ができないと、次々と湧き続けるこんな疑問を全く解決していけないことになる。

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