2015年4月3日金曜日

バアル、アシュトレト、アドニス、大国主命、蔵王権現

  
 桜の季節には、もちろん吉野を思う。桜狩りに出かけなくても、かつて訪れた際の見聞を思い出す。当然、金峯山寺の蔵王権現も思い出す。
 あの強大な立像は、冬の御開帳の時にながい時間見上げ続け、いつまでも飽きなかった記憶があるが、蔵王権現は右腕を持ち上げ、右脚を踏み上げた独特のポーズをとっている。見飽きないのは荘厳さのためより、このポーズが醸し出す独特のユーモラスな雰囲気のためである。顔も、わんぱく小僧が暴れているようで楽しい。
 
  ところで、蔵王権現のこの右腕上げ、右脚上げは、遠い中東のウガリット神話のバアル神の身振りと関係はないのか、と気になり続けている。バアル神が、右腕上げの姿で表象されることが多く、右脚上げはしていないものの、脚を踏み出して交互に開いている場合が多いためだ。
  
 バアルは、ユダヤ教世界では評判が悪く、邪神とされる。
旧約聖書の士師記では、ヨシュアが百十歳で死に、「主を知らず、主がイスラエルに行われた御業も知らない別の世代」が現われた時に、このような記述がある。
「イスラエルの人々は主の目に悪とされることを行い、バアルに仕えるものとなった。彼らは自分たちをエジプトの地から導き出した先祖の神、主を捨て、他の神々、周囲の国の神々に従い、これにひれ伏して、主を怒らせた。彼らは主を捨て、バアルとアシュトレトに仕えたので、主はイスラエルに対して怒りに燃え、彼らを略奪者の手に任せて、略奪されるがままにし、周りの敵の手に売り渡された」(『士師記』2、新共同訳)。
 列王記下10.18-27でも、予言者エリヤに指名されたイスラエル王イエフが、策略を練って、バアルの神殿で「バアルに仕える者たち」を「一人も逃が」さずに「剣で打ち殺し」、「神殿の石の柱を運び出し、焼いた。彼らはバアルの石の柱を破壊し、バアルの神殿を破壊して汚物溜めに変えた」。「それは今日に至るまでそうなっている」というのだから、バアルへの敵意には並々ならぬものがある。(訳はフランシスコ会)

 もともとバアルはカナン人の高位神で、エジプト、ギリシア、フェニキア、カルタゴなど広域で信仰された。エジプトではセトと同一視され、フェニキアやカルタゴでは最高神バアル・ハモンとされた説もある。ユダヤ教が渾身の力で破壊しなければならなかったほど浸透していた、と見るべきだろう。
 シリアのウガリット神話では、最高神イルを父とし、神々の母アシュトレト(またはアーシラト、アシタロテ、アスタルト)を母とする息子の位置にバアルはある。アシュトレトを妻とする説もある。
 母、または妻にあたるアシュトレトは、フランシスコ会聖書研究所『原文校訂による口語訳聖書』によれば、「愛と豊穣の女神」であり、しかも、原語では複数形のアシュタロトとなっているという。すでに士師記の書かれた時代には、アシュトレトはバアルの母ではなく、バアルと関わりのある女神たちと見なされていたのかもしれない。母はひとりでしかあり得ないものの、(複数の「母」という観念が醸成されていたのなら、もちろん、いっそう興味深い)、妻は複数あってもいいので、バアルの複数の「妻」たちと見なすことはできるだろう。
「愛と豊穣の女神」であるアシュトレト、その息子か夫でもありうるバアルを邪神扱いし、それらに仕える者たちを殺戮するというのは、穏やかではない。現代まで続く宗教絡みの抗争や虐殺の源流のひとつを見るようである。
 しかも、アシュトレトは、フェニキアではアシタロテ、ギリシアではアフロディテ、さらに下ればビーナスとなる。メソポタミア神話のほうへ遡れば、イシュタルとなり、さらには性愛の神イナンナとなる。
 イナンナは120の神と性愛関係を持ち、中でも中心的な伴侶はタンムズとドウムジだが、これは変容を経てフェニキアでバアルとなった。ギリシアではアドニスになったという説がある。
バアルーアシタロテの関係は、アドニスーアフロディテの関係として受け継がれ、ギリシア神話の有名な要素となる。
 ちなみに、バアルは「主、殿」を意味し、アドニスは「わが主、わが殿」を意味する。タンムズ、ドウムジも同様の意味らしい。 
 
 ここまで来ると、ユダヤが「愛と豊穣の女神」や「性愛の神」であるアシュトレトを滅ぼそうとし、それと緊密な結びつきのある「主、殿」であるバアル、「土地の主」という意味も持っていたらしいバアルをも滅ぼそうとしていたのが見えてくる。
 しかも、「愛」や「性愛」のアシュトレトと切っても切れないバアルが「主、殿」、アドニスが「わが主、わが殿」という意味であるのを見れば、これはキリスト教に到って復活する「愛」の線の源流であると考えてみるべきだろうと思われてくる。「マリア」という同じ名を持つ聖母マリアと、娼婦とされるマグダラのマリア(近年ではイエスの弟子、ないしは共同者、継承者との見解がある)のふたりとイエスとの関係も、バアル+アシュトレ、アドニス+アフロディテという原型から来ているとも見え、ユダヤに滅ぼされたものの復活として出て来ているとも見えてくる。アドニス神話に、死と再生のテーマが盛り込まれている点でも、キリストとの根源的な共通性がある。

 バアルは「崇高(ゼブル)なるバアル」「気高き主」と呼ばれることが多く、「バアル・ゼブル」と呼ばれたが、これを好ましく思わない側からは「バアル・ゼブブ(蠅の)」と呼ばれた。これが「蠅の王」「糞山の王」を意味する「ベールゼブブ」や「ベルゼバブ」「ベルゼブル」となり、サタンに次ぐとも、サタンを凌ぐともいわれる悪魔の王の呼称となっていく。
 新訳聖書には、人から悪霊を追い出すイエスが、「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」(『マタイによる福音書』12.24、新共同訳。他の箇所にもあり)と批判される話が出てくるが、イエスに対するこうした批判も、バアルを下敷きに考えれば、ユダヤによるバアル+アシュトレ迫害の再現を思わせられる。もちろん、イエスはベルゼブルを悪霊として扱いつつ反駁を組み立てているが、聖書が記述されていく以前に、イエス=バアルを思わせる原風景が、当時の人々の観念世界に存在したのではないかとも推察される。

 蔵王権現の右腕上げ・右脚上げの身振りとバアル神の身振りとの関係は…という疑問から、バアル神とその周辺を少し巡ってみたが、さすがに、このふたつをじかに結びつけうる資料には、なかなか出逢えない。
 とはいうものの、日本神話の大国主命の話がアドニス神話とよく似ていることから、大国主命=バアル神との説は出されている。死と再生をくり返しながら、地上に作物を繁茂させ、稲作の起源神でもある大国主命の帯びるテーマは、夏に復活を祝うキプロス島のアドニスの祭、アドニア祭とも繋がる。
 蔵王権現が、あらゆるものを司る王であり、究極不滅の真理の権現、つまり、権(=仮、臨時、本来のものでない)の姿で現れたものであれば、バアルの「主、殿」という意味ともそのまま繋がる。大国主命の担った意味が流れ流れて、教養として行者の役小角の意識に入り、吉野の金峯山で修行中だった彼の脳裏にあのような姿で示現したと考えられないことはないだろう。
 権現が左手に持つ刀印は、一切の情欲や煩悩を断ち切る利剣であるそうで、この無粋な一点だけは、どうやらバアルやアドニスとは趣きが異なるのだが、これは、勢い込んだ行者趣味から来るちょっとした偏向とでもいうものだろうか。
  

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