2015年4月3日金曜日

カウリスマキ、鼻削ぎ、谷崎

 
   なぜ鼻なのか。

 アキ・カウリスマキAki Kaurismäkiの「レニングラード・カウボーイズ、モーセに会うLeningrad Cowboys Meet Moses」(1994)では、団員たちを連れてアメリカ巡業からソビエトに帰国するモーセが、アメリカ土産として自由の女神の鼻を切り取り、苦労してヨーロッパの街々を北上していく。
 自由の女神のものなら、掲げ持つ松明を土産にしてもよさそうだが、なぜ鼻なのか。なぜ鼻を削ぎ落してソビエトに持ち帰るのか。
 フィクション世界において鼻にまつわる物語は少なくなく、ゴーゴリや芥川龍之介などは定番の常識としてすぐに思い浮かぶが、生々しく鼻削ぎを取り上げたものとしては、なんといっても谷崎潤一郎の「武州公秘話」(1931-35が浮かぶ。

武州公輝勝は、少年時、法師丸と呼ばれたが、牡鹿城が薬師寺弾正政高の兵に囲まれた際、武士たちが持ち帰ってくる敵将の沢山の首を、夜な夜な洗う女たちの中に紛れ込み、女首というものを知る。
女首というのは鼻の切り取られた首で、忙しい合戦の際のやむを得ない措置のたまものである。首を掻き切って持ち帰る暇のない勇士たちが、殺した敵の鼻だけを目印に切り取っておき、戦が済んでから死骸を探し出して首を切り取ってまわる。「鼻だけ持って来たのでは男か女かの区別もつかない」ため、女首という名称が起こったという。
法師丸がはじめて女首に逢着した光景を、谷崎はこのように書く。
「三日目の晩のことだった。法師丸が屋根裏へ上がって行くと、例の女の前に、一つの異様な首があった。というのは、歳頃二二三かと思われる若武者の首なのだが、おかしなことに、それは鼻が缺けているのである。もっとも顔は決して醜い器量ではない。色が抜けるように白く、月代のあとが青々として、髪の毛のつやつやしく黒いことは、今その首を扱っている娘の、肩から背中へ垂れている房々としたそれにも劣らない。思うにこの武士はよほどの美男だったのだろう。眼つきでも口つきでも、いかにも尋常で、全体の輪郭がよく整い、男らしく引き締ったなかに優美な線が隠されていて、もしその顔のまん中に鼻筋の通った、高い、立派な鼻が附いていたら、あたかも人形師が拵えた典型的な若武者の首のようだったろう。しかるにその鼻が、どういうわけか鋭利な刃物ですっと斬り取ってしまったように、眉間から口の上まで骨と一緒にきれいに無くなっているのである。元来ぴしゃんこな鼻だったら缺けていてもそうおかしくはないが、中高な、秀いでた容貌、――当然中央に彫刻的な隆起物が聳えているべき顔が、その肝腎なものを箆で掬ったように根こそぎ殺がれて、そこが平べったい赤い傷口になっているのだから、並みの醜男の顔よりもなお醜悪で、滑稽であった」。
 この残虐と醜悪の美学もさることながら、首を洗い整える娘を優位に据える描き方には、もちろん、谷崎の美学が滲み、
「娘はその鼻のない首の、水のしたたるような漆黒の髪へ丁寧に櫛の歯を入れて、髻を結い直してやってから、ちょうど鼻のあるべきあたり――顔のまん中を、いつものようにほほえみを浮かべて視つめていた。少年が例によってその表情に魅了されたのはいうまでもないが、取り分けその時の感激の程度は今までにない強いものだった。まあ云ってみれば、その夜の女の顔は滅茶苦茶に破壊された男の首を前にして、生きている者の誇りと喜びとに輝やき、不完全に対する完全の美を具象化していた」
こう続いていくのだが、これはまた、別のテーマ群との快楽的な混線の中に入り込んでいくことになる。

それにしても、なぜ鼻なのか。

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