フランス史によれば、 ガリアに攻め込んで来たローマ軍とガリア人の間でB.C.58年 に戦争が始まったことになっている。
ローマ軍を率いるカエサルはB.C.57年にはアミアン北東のネ ルヴィアンとベルギーを降し、B.C.56年にはブルターニュ半 島の現在のロリアン付近でガリアのヴェネテスの船団を撃破、B. C.55年から54年には、 ガリア人と同盟しているブルトン人征伐を英仏海峡を越えて行って いる。
そうしてB.C.52年、有名なアレジアAlésiaの戦いで敗 北を喫したガリア人軍隊の長ヴェルサンジェトリクスVercingé torix( ウェルキンゲトリクス)の投降に到る。 ひとり捕囚の身となったヴェルサンジェトリクスはローマに送られ、ろくに空気も通わない暗い牢獄に6 年ほども閉じ込められた後、 カエサルの凱旋式の際に処刑されたという、 これも有名な話が続くことになる。
もっとも、ヴェルサンジェトリクスの運命については、 最近の研究においては、 処刑されなかったのではないかとの説も出ている。
ともあれ、フランス史を読んでいるかぎりは、 ローマの一方的なガリア攻撃に果敢に戦ったヴェルサンジェトリク スとガリア人たち、との印象を受けやすい。
だが、ローマ史の側にまわってみるとどうだろう。
B.C.753年のロムルスから始まる初期の7人のローマ王たち の建国時代の間に、さまざまな基礎構築や改革を経験した後、 さらに共和制の成立、ユニウス・ ブルトゥスによるエトルリア人王の追放革命、 対外戦争などを経て、身分闘争に入って揺れ動き、 ようやくローマ法の萌芽となる12表法の公示まで漕ぎつけたとこ ろで、今度は、 塩や穀物の交易ルートの支配権をめぐるエトルリア人との戦いが起 こる。
ようやくエトルリア人の都市ウェイイをB.C.396年に陥落さ せ、 戦利品である土地を平民たちに分配して国内が安定したのもつかの 間、B.C390年には、後代のハンニバルさながら、 アルプスを越えてイタリアに侵入したガリア人にアリア湖畔で敗北 し、ローマ市を占拠され、略奪されるという事件が起こっている。
かろうじてフリウス・ カミッルスの活躍でガリア人を撃退したと伝えられるが、 この敗北に懲りて、ローマはその後、態勢を強力に立て直し、 ガリア人の再度の侵入を阻むことになる。 ローマにとって長年の敵であったエトルリアは、しかし、 ガリア人の侵略によって決定的な痛手を受け、その後、 北イタリアはガリア人の定住地となってしまう。
つまり、330年以上も前に、 ローマは先にガリア人の攻撃を受け、 屈辱的な敗北を喫していたわけだ。 カエサルがこの歴史的事実を忘れていたはずはないだろう。
人類において、 国家間や民族間の相互の侵略や吸収が止むことなどあり得ないのは 歴史がたっぷりと証明しているが、330年も経て決定的な報復を 遂げたローマの精神には、 学ぶところがあまりに多いというべきだろう。どこぞの国のように 70年やそこら大国の属国になった程度では、歴史においては、 まだまだ、なにも決するわけではない。
もちろん、 ガリアとローマとのこのせめぎ合いから学ぶべきことには、 歴史はつねに、少なくとも数百年程度の長い尺度で、 双方の側から見て照らし合わせるべし、との教訓も含まれている。
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