2015年5月3日日曜日

B.C.52年のガリア、B.C390年のローマ

 フランス史によれば、ガリアに攻め込んで来たローマ軍とガリア人の間でB.C.58に戦争が始まったことになっている。
ローマ軍を率いるカエサルはB.C.57年にはアミアン北東のネルヴィアンとベルギーを降し、B.C.56年にはブルターニュ半島の現在のロリアン付近でガリアのヴェネテスの船団を撃破、B.C.55年から54年には、ガリア人と同盟しているブルトン人征伐を英仏海峡を越えて行っている。
そうしてB.C.52年、有名なアレジアAlésiaの戦いで敗北を喫したガリア人軍隊の長ヴェルサンジェトリクスVercingétorixウェルキンゲトリクス)の投降に到る。ひとり捕囚の身となったヴェルサンジェトリクスはローマに送られ、ろくに空気も通わない暗い牢獄に6年ほども閉じ込められた後、カエサルの凱旋式の際に処刑されたという、これも有名な話が続くことになる。
もっとも、ヴェルサンジェトリクスの運命については、最近の研究においては、処刑されなかったのではないかとの説も出ている。
ともあれ、フランス史を読んでいるかぎりは、ローマの一方的なガリア攻撃に果敢に戦ったヴェルサンジェトリクスとガリア人たち、との印象を受けやすい。

だが、ローマ史の側にまわってみるとどうだろう。
B.C.753年のロムルスから始まる初期の7人のローマ王たちの建国時代の間に、さまざまな基礎構築や改革を経験した後、さらに共和制の成立、ユニウス・ブルトゥスによるエトルリア人王の追放革命、対外戦争などを経て、身分闘争に入って揺れ動き、ようやくローマ法の萌芽となる12表法の公示まで漕ぎつけたところで、今度は、塩や穀物の交易ルートの支配権をめぐるエトルリア人との戦いが起こる。
ようやくエトルリア人の都市ウェイイをB.C.396年に陥落させ、戦利品である土地を平民たちに分配して国内が安定したのもつかの間、B.C390年には、後代のハンニバルさながら、アルプスを越えてイタリアに侵入したガリア人にアリア湖畔で敗北し、ローマ市を占拠され、略奪されるという事件が起こっている。
かろうじてフリウス・カミッルスの活躍でガリア人を撃退したと伝えられるが、この敗北に懲りて、ローマはその後、態勢を強力に立て直し、ガリア人の再度の侵入を阻むことになる。ローマにとって長年の敵であったエトルリアは、しかし、ガリア人の侵略によって決定的な痛手を受け、その後、北イタリアはガリア人の定住地となってしまう。

つまり、330年以上も前に、ローマは先にガリア人の攻撃を受け、屈辱的な敗北を喫していたわけだ。カエサルがこの歴史的事実を忘れていたはずはないだろう。
人類において、国家間や民族間の相互の侵略や吸収が止むことなどあり得ないのは歴史がたっぷりと証明しているが、330年も経て決定的な報復を遂げたローマの精神には、学ぶところがあまりに多いというべきだろう。どこぞの国のように70年やそこら大国の属国になった程度では、歴史においては、まだまだ、なにも決するわけではない。

もちろん、ガリアとローマとのこのせめぎ合いから学ぶべきことには、歴史はつねに、少なくとも数百年程度の長い尺度で、双方の側から見て照らし合わせるべし、との教訓も含まれている。                               
   

0 件のコメント:

コメントを投稿