2016年10月17日月曜日

ジョルジュ・ルフェーヴルのアリストクラート層概念


 ジョルジュ・ルフェーヴルGeorges Lefebvreは、『革命的群衆Foules révolutionnaires』の中で、第三身分tiers-étatに属するとされる者たちの心性について、「均一的なものとはほど遠かった」[]と書いている。
 これは、「第三身分」などという視点によりながらフランス革命前夜を見ようとする者には貴重な指摘で、遠い時代を観察する際に陥りがちになる安易な概括化にブレーキを掛けてくれる。
「農民たちは、都市民たちよりもはるかにアンシアン・レジームの重圧に苦しんでいたのであり、彼らは領主とむき出しの形で対峙している。飢餓ともなれば、特権階級や国王役人に対する反感はいっそう強まるが、それは同時に、貧者と富者、消費者と生産者、都市民と農民とを対立させることによって、第三身分を解体する方向に作用する」。[]
 貴族、僧職、第三身分といった明瞭な階層づけは、粗い見取り用の網とはなっても、この網で掬ったイメージは決してそのままは使えない、というジレンマに追われ続けることになる。
 しかも、貴族といえば、フランス語で言うならばノブレスnoblesseであり、アリストクラスィaristocratieだとすぐに即断して粗く考察を進めようとしてしまいがちになるが、これについては二宮宏之が注意を発してくれている。
「『アリストクラート層』aristocratieとは、政治的・社会的な支配階級を指している。身分的には貴族と聖職者を主とするが、上層ブルジョワも含まれるのであり、貴族身分noblesse即アリストクラート層というわけではない。また、聖職者身分ではあっても、小教区の司祭など下位聖職者はアリストクラート層には含まれない」。[]
 二宮は、ルフェーヴルの使用によるアリストクラート層概念について述べているわけで、これは、他のフランス革命史家たち皆に共通する概念規定ではない。しかし、このルフェーヴル的アリストクラート層概念を用いて眺め直してみると、「貴族」や「第三身分」といった概念を使用するだけでは見えづらいものが感知されてくる
たとえば、エマニュエル・スィエスEmmanuel Sieyèsは、革命前夜に、シャルトルの司教代理(1780)、司教座聖堂参事会員(1783年)となり、第三身分としては「望みうる最高の行政職ポスト」[]に就いたばかりか、1787年から1788年には、オルレアン州議会の聖職者代表となっている。これは、彼がアリストクラート層に入ったことを意味している。『第三身分とはなにかQu’est-ce que le tiers-état ?』を書いている40歳のスィエスは、職務上はけっして、「アリストクラート層には含まれない」下位聖職者ではないことになる。
 他方、正真正銘の貴族でありながら、末子であった20歳前後のシャトーブリアンFrançois-René de Chateaubriandは、前途を決められぬまゝ、革命前夜パリに出て、貴族としての職を得るべく、兄の助けを得てヴェルサイユ宮殿に赴き、ルイ16世やマリー・アントワネットに会いながらも、そこから戻れば靴下売りなどをしてかつかつの生計を立てている。家柄や兄の地位を切り離して彼個人を見れば、実質的には、「アリストクラート層には含まれない」という状態だったと見なければならない。
 これに加えて、30代半ばに司教となったタレイランCharles-Maurice de Talleyrand-Périgordの場合などは、司教のような高位聖職者になってもならなくても、シャルルマーニュの末裔であるペリゴール伯爵の直系子孫の大貴族であるため、一度としてアリストクラート層から離れたことはない
 
  


[] .ルフェーヴル『革命的群衆』(二宮宏之訳、岩波文庫、2007)、P.35
[] 同書、pp.35-36
[] 同書、pp.79、訳注(二二)。
[] シィエス『第三身分とは何か』(稲本・伊藤・川出・松本訳、岩波文庫、2011)、p.224

2015年5月27日水曜日

『謝罪の王様』のエンディングと《人間が横並びになって取る同一の身ぶり性》

いちおう「謝罪」という作品テーマと関連してはいるものの、阿部サダヲ主演、宮藤官九郎脚本、水田伸生監督のコメディー映画『謝罪の王様』(2013)では、01:58:38あたりから、映像的には本編となんの関連もないエンディングソング&ミュージックが始まる*。作品は、Caseと題された章ごとに1から6まで進んできて終わっているのだが、その流れを引き継ぐかたちでこのエンディングにも「Case7?」とのタイトルが付されてはいる。
踊りに合わせてE-girlsが歌う『ごめんなさいのkissing you』が、このエンディングを主導する内容となっているが、途中に、『止まらないHAHA』、『まつり』、『ヘビーローテーション』、『サライ』、『永遠に中学生』などの曲が、EXILEMATSUKENICHIKEIJITETSUYANAOTONAOKIのダンスや、VERBALの歌唱や、EXPG KIDS DANCERSのダンスに乗って入ってくる。

ごくふつうに映画の物語を追う視聴者としては、映画自体がすでに終了しているものとして、このエンディング部分をいい加減に見流してしまってもなんら問題はないと言えるし、ここぞとばかり、そそくさと映画館から立ち去ってしまったり、DVDを停止して取り出してしまっても、いわゆる「鑑賞」上は、おそらく支障はない。
しかしながら、クレジットが流れ終わるまでをとりあえず「映画」であると考えて、最後の最後まで律儀につき合い続ける視聴者ならば、20人の若い娘たちから成るE-girlsが、こちらのほうを向いて皆おなじ身ぶりで踊りながら歌うのを目にする時、ある貴重な再発見の瞬間に居合わせさせられる気になるだろう。それは、曲に乗って、同じ身ぶりをたくさんのメンバー皆が同時に取り続けるという光景から来るものだが、これがごく数人からなる光景ではなく、20の若い女性たちによって構成される光景であるからこそ、はじめて見紛いようもなく体験させられるものである。

再発見させられるものとはなにか。それは、文化というもの、文化的なるものが、大人数によって同一の身ぶりが取られる時にのみ発生するという、ごく当たり前の事実である。たかがコメディー映画のクレジットや、さほど文化にも芸能の深みにも通じていない若者向けの商業歌謡やダンスに「文化」なる言葉を用いることは不愉快でもあれば不適切でもあるというならば、この言葉に換えて、たとえば、他のものより以上に見られるべきもの、いっそう人の目を惹く性質を帯びたもの、などと言い換えてもいっこう構わないのだが、どのような表現で呼ばれるのであれ、個人的な気まぐれな遊戯や気慰みを超えた、見る側と見られる側とを巻き込んだ一段と大きな枠組みの運動性が、とにかくも、そこに発生してしまうのがはっきりと観察されるということなのである。
E-girls20人によって取られる同一の身ぶりは、その人数の多さによっていかにも効果的に、視聴者側に対して、《人間が横並びになって取る同一の身ぶり性》を投げ返してよこす。あゝ、こんなふうに大人数に同じ身ぶりのダンスをさせることによって、他のものにもまして見られるべき見世物がまさに此処に成立し、文化的と呼びたくなるものが出現してくるのだ、と視聴者が思い至った瞬間、すぐに、なんのことはない、この場面を見ている自分たち視聴者にしても、まったく同じようにしているではないか、規則的に並べられた座席というものに座り、いかにも従順に静かにスクリーンのほうを向き、お利口な視聴者然として映像と音の流れを享受し続けているではないか、と気づかされるわけで、疑いようもなく、《人間が横並びになって取る同一の身ぶり性》に自ら嵌り込んで、スクリーン上のE-girlsの同構造の運動を眺めていたことに愕然とさせられるのである。

人間は、スクリーン上や芸術のオブジェにおいて、あるいは体操やスポーツ、軍事行動などの場面で見せられるのでないかぎり、同じ姿勢や身ぶり、動きで大勢の人間たちが並ぶことから、何か異常なもの、面白いもの、非日常のもの、目を惹かれてやまないものなどが発生するものであることに気づきづらい。社会は、どのような微細な局面においても、一定パターンに複数の人間たちが嵌るのを強いてくるものだが、特に身体的なかたちを取らない場合でさえ、そうした強制に例外はないということに、人間はじつに気づきづらい。芸術や芸能という装置は、本来、それを一気に気づかせる拡大鏡としての側面を持っているが、いわゆる芸術性の度合いが強まりすぎ、それらがあまりにソフィスティケイティドされてしまっている場合には、そうした装置性が隠蔽されてしまうため、本質的な人間社会批判性が和らげられてしまう。往々にして、『謝罪の王様』のような、芸術性の度合いの緩和された粗いドタバタふうのコメディーのほうが、人間社会批判のための装置性を露骨に取り戻しうるのである。
                                

2015年5月7日木曜日

ユーグ・カペー、捏造人事と人事ロンダリング

 カぺー朝の祖ユーグ・カペーHugues Capetは、9877月、ノワイヨでの会議で王として選出され、ランスReimsの大司教アダルベロンによって聖別された。
 17世紀史の大家ながら、正確で詳細な名著『フランス史入門Initiation à l’histoire de la France』を書いたピエール・グベールPierre Goubertによれば、数週間にわたるtractations、すなわち闇取引の後に、西フランクことFranciaないしはFrancie12人ほどの重要な領主たちや君主たちが、アダルベロンに焚きつけられて、自分たちのうちのひとりであるユーグを「王」に仕立て上げるべく、この選出を決定したものという。
 あだ名の「カペー」は、この男がカッパcappaを着ていたからで、これは高位聖職者が儀式で着用するマントのことである。今ふうにくだけた言い方をすれば、カッパのユーグ、カッパばかりいつも着ているユーグ、という程度の呼称である。
 彼は権勢のある家柄の出で、パリの領主たちとフランスの君主たちの血の混じるところに生まれた。祖先たちは侵略者ノルマン人たちを打ち破ったり、カロリング王朝の最後の王たちと張り合って、二度にわたって地位を奪ったりという勇名を轟かしており、時代に応じて、エーヌからロワールに及ぶ広大な土地や森林を手中に収めたり、支配したりしていた。
 ユーグという名は、当時はビッグネームで、教会に支持され、コンピエーニュからオルレアンの間に散らばる土地を私的な領地としていた。とはいえ、肝心の自分の臣下たちが多かれ少なかれ追いはぎや山賊のたぐいであった時代、どうにかこうにか領地を駆けて見まわってみるのがせいぜいで、領主とは名ばかりのひ弱さといったら、お話にならなかった。
 じつはこのひ弱さこそが、古来、「王」にはいちばん弱いヤツを立てておけばいかようにも利用できるとの鉄則どおり、他の領主たちや君主たちに注目され、最初のフランス「王」の捏造に好都合この上なしと見られたわけで、ユーグにとっても幸いし、この上なく地味に、努めて目立たないように、カペー朝誕生と相成ったわけである。
こうしてカペー朝初代の国王となったユーグは、面白いことに、3か月後にはすぐ、息子のロベールを王位に関与させている。オルレアンでロベールを聖別させ、すべての大領主たちに認めさせたのだ。
自分はといえば、oint du Seigneur(神に聖別された者)、quasi-prêtre(準司祭)となり、上皇的な立場とでもいうのか、しっかりと国王を演じるのからは、早々に距離を取ることにしている。
 歴史の授業で概括的に覚え込まされると、あまり面白みのない人物ながら、この程度だけでも拡大鏡で見始めると、ユーグ・カペーもなかなか面白そうな人物に見えてくる。

 個人的には、ちょっとしたエピソードが実生活上であったため、ユーグ・カペーをめぐるこんな事情はいっそう面白く見える。
 関わりのある大学で、年齢差別を禁じる雇用対策法第10条への明白な違反が行われ、採用人事において大がかりな不正が行われたのだが、その時に不正採用されたのが、カペー朝の研究者であった。なんと、政治学・政治史の教員として、専門分野の論文や業績も全くない、西洋史学の特殊分野の研究者を採用するというトンデモなお友達人事がなされたわけだが(もちろん、こんなことは枚挙に暇がない)、ユーグ・カペー擁立の経緯を見れば、捏造人事において、この研究者がいかに適任であったかがわかり、面白いことこの上ない。
 問題の大学は、しかも、採用にあたって姑息な迂回措置をとり、人事ロンダリングを行った。ユーグ・カペーが息子のロベールをすぐに王位に関与させているところなど、王位ロンダリングの嚆矢とでもいうべきで、どうしてどうして、今回採用されたカペー朝研究者は、この点からもなかなかの適任であったのか、と思わされる。

 

2015年5月3日日曜日

イタリア連邦体制期のローマの支配方法

 イタリアに攻め込んだ百戦錬磨のエピルス王ピュロスをクリウス・デンタトゥスが撃退し、その勢いに乗って南イタリアのルカニア地方も征服したB.C.275年の時点で、ローマのイタリア支配が達成された。
 ここでの有名な支配の仕方は、現代でも他国・他民族支配方法の基本となっており、支配地域から兵員を吸い上げる優れた方法なので、振り返っておく価値がある。

 ローマ領とした地域は、すべてがローマ国家の領土となるわけではない。シネ・スフラギオ(投票権)のないローマ市民権を与え、各都市の自治を認めて、ムニキピウム(自治都市)とする。ムニキピウムの市民を徴兵し、ローマ軍に従軍させる。
 南イタリアのギリシア都市など、遠方の都市共同体の場合は、独立を保たせたまま、フォエドゥス(条約)を結ばせ、ソキイ(同盟市)として、実質的なローマ支配下に入れる。ソキイには定まった数の兵員提供を義務付け、同盟軍を組織させる。
 支配下に入れた地域を併合せず、破壊もせず、独立を保たせたまま、あるいは自治を認めたまま、兵力を提供させる方法で、文化面には手をつけず、社会構造や政治機構にも極力手をつけない。太枠のローマ連邦拡大や維持へと各都市や各地域を方向づけようとするものである。

 これとは違って、戦争で勝利した地域を国家が没収し、公有地とする場合もある。貴族に委ねて耕作や牧畜に使用させ、土地使用料を国家が吸い上げたり、国家管理のコロニア(植民市)を建設したりする。
 土地所有農民となるのを望む平民をコロニアに送り込むのだが、入植者はローマ市民権放棄を強いられ、通商権や通婚権のある準市民権のラテン権に移行させられる。ローマ出身の平民であっても、支配都市の市民のステイタスに格下げする措置だろう。国家組織は、成員の平等化とともに、つねに格差付けや階級付けによる不平等化をも行わなければならない。人間の集団にあっては多様な仕事や作業が必要とされ、全員が同質・平等では自発的従事者が減る領域もある。巧妙に不平等化を創出することで、一定数の人員を不人気な労働に導くのは、国家運営の要事である。

 戦後から現在に至るまでのアメリカの対日戦略は、より洗練されているとはいえ、ローマに淵源を持つ方法論にもとづく。戦争放棄憲法を持たせて、ある時は軍事力を極力削ぎ、ある時は憲法に矛盾した軍事化を進めさせ、次には戦争放棄憲法を外させる。戦争終結時点からの柔軟な複数のシナリオにもとづく支配が続いているだけで、日本が今になって、アメリカ連邦体制の軍事的一地域であることから逃れようとするのは非現実的である。独立国家としての独自な平和路線を追求することは、国内に張り巡らされたアメリカの支配網の存在により、児戯に等しい。基地や莫大な上納金を提供し続けながら、まだまだ長期に亘ってソキイ(同盟市)であり続ける他はない。
 しかし、経済問題や身分問題の無限のうねりを血液とするあらゆる組織や国家は、それが、指令・統合・分配等の作業を維持する当面の機構のまま健全に機能し続けるかぎりにおいて、まさにそのことによって確実に疲弊し、ゆっくりと崩壊の道を歩んでいく。消滅しないローマなど存在し得ない。大国や強大な覇権の分解過程については、ローマやヨーロッパ史よりも、古代メソポタミアの諸国の興亡や中国史、アジア史がいっそう鮮烈に教えてくれるかもしれない。


B.C.52年のガリア、B.C390年のローマ

 フランス史によれば、ガリアに攻め込んで来たローマ軍とガリア人の間でB.C.58に戦争が始まったことになっている。
ローマ軍を率いるカエサルはB.C.57年にはアミアン北東のネルヴィアンとベルギーを降し、B.C.56年にはブルターニュ半島の現在のロリアン付近でガリアのヴェネテスの船団を撃破、B.C.55年から54年には、ガリア人と同盟しているブルトン人征伐を英仏海峡を越えて行っている。
そうしてB.C.52年、有名なアレジアAlésiaの戦いで敗北を喫したガリア人軍隊の長ヴェルサンジェトリクスVercingétorixウェルキンゲトリクス)の投降に到る。ひとり捕囚の身となったヴェルサンジェトリクスはローマに送られ、ろくに空気も通わない暗い牢獄に6年ほども閉じ込められた後、カエサルの凱旋式の際に処刑されたという、これも有名な話が続くことになる。
もっとも、ヴェルサンジェトリクスの運命については、最近の研究においては、処刑されなかったのではないかとの説も出ている。
ともあれ、フランス史を読んでいるかぎりは、ローマの一方的なガリア攻撃に果敢に戦ったヴェルサンジェトリクスとガリア人たち、との印象を受けやすい。

だが、ローマ史の側にまわってみるとどうだろう。
B.C.753年のロムルスから始まる初期の7人のローマ王たちの建国時代の間に、さまざまな基礎構築や改革を経験した後、さらに共和制の成立、ユニウス・ブルトゥスによるエトルリア人王の追放革命、対外戦争などを経て、身分闘争に入って揺れ動き、ようやくローマ法の萌芽となる12表法の公示まで漕ぎつけたところで、今度は、塩や穀物の交易ルートの支配権をめぐるエトルリア人との戦いが起こる。
ようやくエトルリア人の都市ウェイイをB.C.396年に陥落させ、戦利品である土地を平民たちに分配して国内が安定したのもつかの間、B.C390年には、後代のハンニバルさながら、アルプスを越えてイタリアに侵入したガリア人にアリア湖畔で敗北し、ローマ市を占拠され、略奪されるという事件が起こっている。
かろうじてフリウス・カミッルスの活躍でガリア人を撃退したと伝えられるが、この敗北に懲りて、ローマはその後、態勢を強力に立て直し、ガリア人の再度の侵入を阻むことになる。ローマにとって長年の敵であったエトルリアは、しかし、ガリア人の侵略によって決定的な痛手を受け、その後、北イタリアはガリア人の定住地となってしまう。

つまり、330年以上も前に、ローマは先にガリア人の攻撃を受け、屈辱的な敗北を喫していたわけだ。カエサルがこの歴史的事実を忘れていたはずはないだろう。
人類において、国家間や民族間の相互の侵略や吸収が止むことなどあり得ないのは歴史がたっぷりと証明しているが、330年も経て決定的な報復を遂げたローマの精神には、学ぶところがあまりに多いというべきだろう。どこぞの国のように70年やそこら大国の属国になった程度では、歴史においては、まだまだ、なにも決するわけではない。

もちろん、ガリアとローマとのこのせめぎ合いから学ぶべきことには、歴史はつねに、少なくとも数百年程度の長い尺度で、双方の側から見て照らし合わせるべし、との教訓も含まれている。                               
   

2015年4月3日金曜日

バアル、アシュトレト、アドニス、大国主命、蔵王権現

  
 桜の季節には、もちろん吉野を思う。桜狩りに出かけなくても、かつて訪れた際の見聞を思い出す。当然、金峯山寺の蔵王権現も思い出す。
 あの強大な立像は、冬の御開帳の時にながい時間見上げ続け、いつまでも飽きなかった記憶があるが、蔵王権現は右腕を持ち上げ、右脚を踏み上げた独特のポーズをとっている。見飽きないのは荘厳さのためより、このポーズが醸し出す独特のユーモラスな雰囲気のためである。顔も、わんぱく小僧が暴れているようで楽しい。
 
  ところで、蔵王権現のこの右腕上げ、右脚上げは、遠い中東のウガリット神話のバアル神の身振りと関係はないのか、と気になり続けている。バアル神が、右腕上げの姿で表象されることが多く、右脚上げはしていないものの、脚を踏み出して交互に開いている場合が多いためだ。
  
 バアルは、ユダヤ教世界では評判が悪く、邪神とされる。
旧約聖書の士師記では、ヨシュアが百十歳で死に、「主を知らず、主がイスラエルに行われた御業も知らない別の世代」が現われた時に、このような記述がある。
「イスラエルの人々は主の目に悪とされることを行い、バアルに仕えるものとなった。彼らは自分たちをエジプトの地から導き出した先祖の神、主を捨て、他の神々、周囲の国の神々に従い、これにひれ伏して、主を怒らせた。彼らは主を捨て、バアルとアシュトレトに仕えたので、主はイスラエルに対して怒りに燃え、彼らを略奪者の手に任せて、略奪されるがままにし、周りの敵の手に売り渡された」(『士師記』2、新共同訳)。
 列王記下10.18-27でも、予言者エリヤに指名されたイスラエル王イエフが、策略を練って、バアルの神殿で「バアルに仕える者たち」を「一人も逃が」さずに「剣で打ち殺し」、「神殿の石の柱を運び出し、焼いた。彼らはバアルの石の柱を破壊し、バアルの神殿を破壊して汚物溜めに変えた」。「それは今日に至るまでそうなっている」というのだから、バアルへの敵意には並々ならぬものがある。(訳はフランシスコ会)

 もともとバアルはカナン人の高位神で、エジプト、ギリシア、フェニキア、カルタゴなど広域で信仰された。エジプトではセトと同一視され、フェニキアやカルタゴでは最高神バアル・ハモンとされた説もある。ユダヤ教が渾身の力で破壊しなければならなかったほど浸透していた、と見るべきだろう。
 シリアのウガリット神話では、最高神イルを父とし、神々の母アシュトレト(またはアーシラト、アシタロテ、アスタルト)を母とする息子の位置にバアルはある。アシュトレトを妻とする説もある。
 母、または妻にあたるアシュトレトは、フランシスコ会聖書研究所『原文校訂による口語訳聖書』によれば、「愛と豊穣の女神」であり、しかも、原語では複数形のアシュタロトとなっているという。すでに士師記の書かれた時代には、アシュトレトはバアルの母ではなく、バアルと関わりのある女神たちと見なされていたのかもしれない。母はひとりでしかあり得ないものの、(複数の「母」という観念が醸成されていたのなら、もちろん、いっそう興味深い)、妻は複数あってもいいので、バアルの複数の「妻」たちと見なすことはできるだろう。
「愛と豊穣の女神」であるアシュトレト、その息子か夫でもありうるバアルを邪神扱いし、それらに仕える者たちを殺戮するというのは、穏やかではない。現代まで続く宗教絡みの抗争や虐殺の源流のひとつを見るようである。
 しかも、アシュトレトは、フェニキアではアシタロテ、ギリシアではアフロディテ、さらに下ればビーナスとなる。メソポタミア神話のほうへ遡れば、イシュタルとなり、さらには性愛の神イナンナとなる。
 イナンナは120の神と性愛関係を持ち、中でも中心的な伴侶はタンムズとドウムジだが、これは変容を経てフェニキアでバアルとなった。ギリシアではアドニスになったという説がある。
バアルーアシタロテの関係は、アドニスーアフロディテの関係として受け継がれ、ギリシア神話の有名な要素となる。
 ちなみに、バアルは「主、殿」を意味し、アドニスは「わが主、わが殿」を意味する。タンムズ、ドウムジも同様の意味らしい。 
 
 ここまで来ると、ユダヤが「愛と豊穣の女神」や「性愛の神」であるアシュトレトを滅ぼそうとし、それと緊密な結びつきのある「主、殿」であるバアル、「土地の主」という意味も持っていたらしいバアルをも滅ぼそうとしていたのが見えてくる。
 しかも、「愛」や「性愛」のアシュトレトと切っても切れないバアルが「主、殿」、アドニスが「わが主、わが殿」という意味であるのを見れば、これはキリスト教に到って復活する「愛」の線の源流であると考えてみるべきだろうと思われてくる。「マリア」という同じ名を持つ聖母マリアと、娼婦とされるマグダラのマリア(近年ではイエスの弟子、ないしは共同者、継承者との見解がある)のふたりとイエスとの関係も、バアル+アシュトレ、アドニス+アフロディテという原型から来ているとも見え、ユダヤに滅ぼされたものの復活として出て来ているとも見えてくる。アドニス神話に、死と再生のテーマが盛り込まれている点でも、キリストとの根源的な共通性がある。

 バアルは「崇高(ゼブル)なるバアル」「気高き主」と呼ばれることが多く、「バアル・ゼブル」と呼ばれたが、これを好ましく思わない側からは「バアル・ゼブブ(蠅の)」と呼ばれた。これが「蠅の王」「糞山の王」を意味する「ベールゼブブ」や「ベルゼバブ」「ベルゼブル」となり、サタンに次ぐとも、サタンを凌ぐともいわれる悪魔の王の呼称となっていく。
 新訳聖書には、人から悪霊を追い出すイエスが、「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」(『マタイによる福音書』12.24、新共同訳。他の箇所にもあり)と批判される話が出てくるが、イエスに対するこうした批判も、バアルを下敷きに考えれば、ユダヤによるバアル+アシュトレ迫害の再現を思わせられる。もちろん、イエスはベルゼブルを悪霊として扱いつつ反駁を組み立てているが、聖書が記述されていく以前に、イエス=バアルを思わせる原風景が、当時の人々の観念世界に存在したのではないかとも推察される。

 蔵王権現の右腕上げ・右脚上げの身振りとバアル神の身振りとの関係は…という疑問から、バアル神とその周辺を少し巡ってみたが、さすがに、このふたつをじかに結びつけうる資料には、なかなか出逢えない。
 とはいうものの、日本神話の大国主命の話がアドニス神話とよく似ていることから、大国主命=バアル神との説は出されている。死と再生をくり返しながら、地上に作物を繁茂させ、稲作の起源神でもある大国主命の帯びるテーマは、夏に復活を祝うキプロス島のアドニスの祭、アドニア祭とも繋がる。
 蔵王権現が、あらゆるものを司る王であり、究極不滅の真理の権現、つまり、権(=仮、臨時、本来のものでない)の姿で現れたものであれば、バアルの「主、殿」という意味ともそのまま繋がる。大国主命の担った意味が流れ流れて、教養として行者の役小角の意識に入り、吉野の金峯山で修行中だった彼の脳裏にあのような姿で示現したと考えられないことはないだろう。
 権現が左手に持つ刀印は、一切の情欲や煩悩を断ち切る利剣であるそうで、この無粋な一点だけは、どうやらバアルやアドニスとは趣きが異なるのだが、これは、勢い込んだ行者趣味から来るちょっとした偏向とでもいうものだろうか。
  

カウリスマキ、鼻削ぎ、谷崎

 
   なぜ鼻なのか。

 アキ・カウリスマキAki Kaurismäkiの「レニングラード・カウボーイズ、モーセに会うLeningrad Cowboys Meet Moses」(1994)では、団員たちを連れてアメリカ巡業からソビエトに帰国するモーセが、アメリカ土産として自由の女神の鼻を切り取り、苦労してヨーロッパの街々を北上していく。
 自由の女神のものなら、掲げ持つ松明を土産にしてもよさそうだが、なぜ鼻なのか。なぜ鼻を削ぎ落してソビエトに持ち帰るのか。
 フィクション世界において鼻にまつわる物語は少なくなく、ゴーゴリや芥川龍之介などは定番の常識としてすぐに思い浮かぶが、生々しく鼻削ぎを取り上げたものとしては、なんといっても谷崎潤一郎の「武州公秘話」(1931-35が浮かぶ。

武州公輝勝は、少年時、法師丸と呼ばれたが、牡鹿城が薬師寺弾正政高の兵に囲まれた際、武士たちが持ち帰ってくる敵将の沢山の首を、夜な夜な洗う女たちの中に紛れ込み、女首というものを知る。
女首というのは鼻の切り取られた首で、忙しい合戦の際のやむを得ない措置のたまものである。首を掻き切って持ち帰る暇のない勇士たちが、殺した敵の鼻だけを目印に切り取っておき、戦が済んでから死骸を探し出して首を切り取ってまわる。「鼻だけ持って来たのでは男か女かの区別もつかない」ため、女首という名称が起こったという。
法師丸がはじめて女首に逢着した光景を、谷崎はこのように書く。
「三日目の晩のことだった。法師丸が屋根裏へ上がって行くと、例の女の前に、一つの異様な首があった。というのは、歳頃二二三かと思われる若武者の首なのだが、おかしなことに、それは鼻が缺けているのである。もっとも顔は決して醜い器量ではない。色が抜けるように白く、月代のあとが青々として、髪の毛のつやつやしく黒いことは、今その首を扱っている娘の、肩から背中へ垂れている房々としたそれにも劣らない。思うにこの武士はよほどの美男だったのだろう。眼つきでも口つきでも、いかにも尋常で、全体の輪郭がよく整い、男らしく引き締ったなかに優美な線が隠されていて、もしその顔のまん中に鼻筋の通った、高い、立派な鼻が附いていたら、あたかも人形師が拵えた典型的な若武者の首のようだったろう。しかるにその鼻が、どういうわけか鋭利な刃物ですっと斬り取ってしまったように、眉間から口の上まで骨と一緒にきれいに無くなっているのである。元来ぴしゃんこな鼻だったら缺けていてもそうおかしくはないが、中高な、秀いでた容貌、――当然中央に彫刻的な隆起物が聳えているべき顔が、その肝腎なものを箆で掬ったように根こそぎ殺がれて、そこが平べったい赤い傷口になっているのだから、並みの醜男の顔よりもなお醜悪で、滑稽であった」。
 この残虐と醜悪の美学もさることながら、首を洗い整える娘を優位に据える描き方には、もちろん、谷崎の美学が滲み、
「娘はその鼻のない首の、水のしたたるような漆黒の髪へ丁寧に櫛の歯を入れて、髻を結い直してやってから、ちょうど鼻のあるべきあたり――顔のまん中を、いつものようにほほえみを浮かべて視つめていた。少年が例によってその表情に魅了されたのはいうまでもないが、取り分けその時の感激の程度は今までにない強いものだった。まあ云ってみれば、その夜の女の顔は滅茶苦茶に破壊された男の首を前にして、生きている者の誇りと喜びとに輝やき、不完全に対する完全の美を具象化していた」
こう続いていくのだが、これはまた、別のテーマ群との快楽的な混線の中に入り込んでいくことになる。

それにしても、なぜ鼻なのか。