2015年5月7日木曜日

ユーグ・カペー、捏造人事と人事ロンダリング

 カぺー朝の祖ユーグ・カペーHugues Capetは、9877月、ノワイヨでの会議で王として選出され、ランスReimsの大司教アダルベロンによって聖別された。
 17世紀史の大家ながら、正確で詳細な名著『フランス史入門Initiation à l’histoire de la France』を書いたピエール・グベールPierre Goubertによれば、数週間にわたるtractations、すなわち闇取引の後に、西フランクことFranciaないしはFrancie12人ほどの重要な領主たちや君主たちが、アダルベロンに焚きつけられて、自分たちのうちのひとりであるユーグを「王」に仕立て上げるべく、この選出を決定したものという。
 あだ名の「カペー」は、この男がカッパcappaを着ていたからで、これは高位聖職者が儀式で着用するマントのことである。今ふうにくだけた言い方をすれば、カッパのユーグ、カッパばかりいつも着ているユーグ、という程度の呼称である。
 彼は権勢のある家柄の出で、パリの領主たちとフランスの君主たちの血の混じるところに生まれた。祖先たちは侵略者ノルマン人たちを打ち破ったり、カロリング王朝の最後の王たちと張り合って、二度にわたって地位を奪ったりという勇名を轟かしており、時代に応じて、エーヌからロワールに及ぶ広大な土地や森林を手中に収めたり、支配したりしていた。
 ユーグという名は、当時はビッグネームで、教会に支持され、コンピエーニュからオルレアンの間に散らばる土地を私的な領地としていた。とはいえ、肝心の自分の臣下たちが多かれ少なかれ追いはぎや山賊のたぐいであった時代、どうにかこうにか領地を駆けて見まわってみるのがせいぜいで、領主とは名ばかりのひ弱さといったら、お話にならなかった。
 じつはこのひ弱さこそが、古来、「王」にはいちばん弱いヤツを立てておけばいかようにも利用できるとの鉄則どおり、他の領主たちや君主たちに注目され、最初のフランス「王」の捏造に好都合この上なしと見られたわけで、ユーグにとっても幸いし、この上なく地味に、努めて目立たないように、カペー朝誕生と相成ったわけである。
こうしてカペー朝初代の国王となったユーグは、面白いことに、3か月後にはすぐ、息子のロベールを王位に関与させている。オルレアンでロベールを聖別させ、すべての大領主たちに認めさせたのだ。
自分はといえば、oint du Seigneur(神に聖別された者)、quasi-prêtre(準司祭)となり、上皇的な立場とでもいうのか、しっかりと国王を演じるのからは、早々に距離を取ることにしている。
 歴史の授業で概括的に覚え込まされると、あまり面白みのない人物ながら、この程度だけでも拡大鏡で見始めると、ユーグ・カペーもなかなか面白そうな人物に見えてくる。

 個人的には、ちょっとしたエピソードが実生活上であったため、ユーグ・カペーをめぐるこんな事情はいっそう面白く見える。
 関わりのある大学で、年齢差別を禁じる雇用対策法第10条への明白な違反が行われ、採用人事において大がかりな不正が行われたのだが、その時に不正採用されたのが、カペー朝の研究者であった。なんと、政治学・政治史の教員として、専門分野の論文や業績も全くない、西洋史学の特殊分野の研究者を採用するというトンデモなお友達人事がなされたわけだが(もちろん、こんなことは枚挙に暇がない)、ユーグ・カペー擁立の経緯を見れば、捏造人事において、この研究者がいかに適任であったかがわかり、面白いことこの上ない。
 問題の大学は、しかも、採用にあたって姑息な迂回措置をとり、人事ロンダリングを行った。ユーグ・カペーが息子のロベールをすぐに王位に関与させているところなど、王位ロンダリングの嚆矢とでもいうべきで、どうしてどうして、今回採用されたカペー朝研究者は、この点からもなかなかの適任であったのか、と思わされる。

 

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