いちおう「謝罪」という作品テーマと関連してはいるものの、 阿部サダヲ主演、宮藤官九郎脚本、 水田伸生監督のコメディー映画『謝罪の王様』(2013)では、 01:58:38あたりから、 映像的には本編となんの関連もないエンディングソング& ミュージックが始まる*。作品は、Caseと題された章ごとに1 から6まで進んできて終わっているのだが、 その流れを引き継ぐかたちでこのエンディングにも「Case7? 」とのタイトルが付されてはいる。
踊りに合わせてE-girlsが歌う『ごめんなさいのkissi ng you』が、このエンディングを主導する内容となっているが、 途中に、『止まらないHA~HA』、『まつり』、『 ヘビーローテーション』、『サライ』、『永遠に中学生』 などの曲が、EXILEのMATSU、KENICHI、KEIJ I、TETSUYA、NAOTO、NAOKIのダンスや、VER BALの歌唱や、EXPG KIDS DANCERSのダンスに乗って入ってくる。
ごくふつうに映画の物語を追う視聴者としては、 映画自体がすでに終了しているものとして、 このエンディング部分をいい加減に見流してしまってもなんら問題 はないと言えるし、ここぞとばかり、 そそくさと映画館から立ち去ってしまったり、DVDを停止して取 り出してしまっても、いわゆる「鑑賞」上は、 おそらく支障はない。
しかしながら、クレジットが流れ終わるまでをとりあえず「映画」 であると考えて、 最後の最後まで律儀につき合い続ける視聴者ならば、 20人の若い娘たちから成るE-girlsが、 こちらのほうを向いて皆おなじ身ぶりで踊りながら歌うのを目にす る時、 ある貴重な再発見の瞬間に居合わせさせられる気になるだろう。 それは、曲に乗って、 同じ身ぶりをたくさんのメンバー皆が同時に取り続けるという光景 から来るものだが、これがごく数人からなる光景ではなく、20人 の若い女性たちによって構成される光景であるからこそ、 はじめて見紛いようもなく体験させられるものである。
再発見させられるものとはなにか。それは、文化というもの、 文化的なるものが、 大人数によって同一の身ぶりが取られる時にのみ発生するという、 ごく当たり前の事実である。 たかがコメディー映画のクレジットや、 さほど文化にも芸能の深みにも通じていない若者向けの商業歌謡や ダンスに「文化」 なる言葉を用いることは不愉快でもあれば不適切でもあるというな らば、この言葉に換えて、たとえば、 他のものより以上に見られるべきもの、 いっそう人の目を惹く性質を帯びたもの、 などと言い換えてもいっこう構わないのだが、 どのような表現で呼ばれるのであれ、 個人的な気まぐれな遊戯や気慰みを超えた、 見る側と見られる側とを巻き込んだ一段と大きな枠組みの運動性が 、とにかくも、 そこに発生してしまうのがはっきりと観察されるということなので ある。
E-girlsの20人によって取られる同一の身ぶりは、 その人数の多さによっていかにも効果的に、視聴者側に対して、《 人間が横並びになって取る同一の身ぶり性》を投げ返してよこす。 あゝ、 こんなふうに大人数に同じ身ぶりのダンスをさせることによって、 他のものにもまして見られるべき見世物がまさに此処に成立し、 文化的と呼びたくなるものが出現してくるのだ、 と視聴者が思い至った瞬間、すぐに、なんのことはない、 この場面を見ている自分たち視聴者にしても、 まったく同じようにしているではないか、 規則的に並べられた座席というものに座り、 いかにも従順に静かにスクリーンのほうを向き、 お利口な視聴者然として映像と音の流れを享受し続けているではな いか、と気づかされるわけで、疑いようもなく、《 人間が横並びになって取る同一の身ぶり性》に自ら嵌り込んで、 スクリーン上のE-girlsの同構造の運動を眺めていたことに 愕然とさせられるのである。
人間は、スクリーン上や芸術のオブジェにおいて、 あるいは体操やスポーツ、 軍事行動などの場面で見せられるのでないかぎり、 同じ姿勢や身ぶり、動きで大勢の人間たちが並ぶことから、 何か異常なもの、面白いもの、非日常のもの、 目を惹かれてやまないものなどが発生するものであることに気づき づらい。社会は、どのような微細な局面においても、 一定パターンに複数の人間たちが嵌るのを強いてくるものだが、 特に身体的なかたちを取らない場合でさえ、 そうした強制に例外はないということに、 人間はじつに気づきづらい。芸術や芸能という装置は、本来、 それを一気に気づかせる拡大鏡としての側面を持っているが、 いわゆる芸術性の度合いが強まりすぎ、 それらがあまりにソフィスティケイティドされてしまっている場合 には、そうした装置性が隠蔽されてしまうため、 本質的な人間社会批判性が和らげられてしまう。往々にして、『 謝罪の王様』のような、 芸術性の度合いの緩和された粗いドタバタふうのコメディーのほう が、人間社会批判のための装置性を露骨に取り戻しうるのである。