2015年5月27日水曜日

『謝罪の王様』のエンディングと《人間が横並びになって取る同一の身ぶり性》

いちおう「謝罪」という作品テーマと関連してはいるものの、阿部サダヲ主演、宮藤官九郎脚本、水田伸生監督のコメディー映画『謝罪の王様』(2013)では、01:58:38あたりから、映像的には本編となんの関連もないエンディングソング&ミュージックが始まる*。作品は、Caseと題された章ごとに1から6まで進んできて終わっているのだが、その流れを引き継ぐかたちでこのエンディングにも「Case7?」とのタイトルが付されてはいる。
踊りに合わせてE-girlsが歌う『ごめんなさいのkissing you』が、このエンディングを主導する内容となっているが、途中に、『止まらないHAHA』、『まつり』、『ヘビーローテーション』、『サライ』、『永遠に中学生』などの曲が、EXILEMATSUKENICHIKEIJITETSUYANAOTONAOKIのダンスや、VERBALの歌唱や、EXPG KIDS DANCERSのダンスに乗って入ってくる。

ごくふつうに映画の物語を追う視聴者としては、映画自体がすでに終了しているものとして、このエンディング部分をいい加減に見流してしまってもなんら問題はないと言えるし、ここぞとばかり、そそくさと映画館から立ち去ってしまったり、DVDを停止して取り出してしまっても、いわゆる「鑑賞」上は、おそらく支障はない。
しかしながら、クレジットが流れ終わるまでをとりあえず「映画」であると考えて、最後の最後まで律儀につき合い続ける視聴者ならば、20人の若い娘たちから成るE-girlsが、こちらのほうを向いて皆おなじ身ぶりで踊りながら歌うのを目にする時、ある貴重な再発見の瞬間に居合わせさせられる気になるだろう。それは、曲に乗って、同じ身ぶりをたくさんのメンバー皆が同時に取り続けるという光景から来るものだが、これがごく数人からなる光景ではなく、20の若い女性たちによって構成される光景であるからこそ、はじめて見紛いようもなく体験させられるものである。

再発見させられるものとはなにか。それは、文化というもの、文化的なるものが、大人数によって同一の身ぶりが取られる時にのみ発生するという、ごく当たり前の事実である。たかがコメディー映画のクレジットや、さほど文化にも芸能の深みにも通じていない若者向けの商業歌謡やダンスに「文化」なる言葉を用いることは不愉快でもあれば不適切でもあるというならば、この言葉に換えて、たとえば、他のものより以上に見られるべきもの、いっそう人の目を惹く性質を帯びたもの、などと言い換えてもいっこう構わないのだが、どのような表現で呼ばれるのであれ、個人的な気まぐれな遊戯や気慰みを超えた、見る側と見られる側とを巻き込んだ一段と大きな枠組みの運動性が、とにかくも、そこに発生してしまうのがはっきりと観察されるということなのである。
E-girls20人によって取られる同一の身ぶりは、その人数の多さによっていかにも効果的に、視聴者側に対して、《人間が横並びになって取る同一の身ぶり性》を投げ返してよこす。あゝ、こんなふうに大人数に同じ身ぶりのダンスをさせることによって、他のものにもまして見られるべき見世物がまさに此処に成立し、文化的と呼びたくなるものが出現してくるのだ、と視聴者が思い至った瞬間、すぐに、なんのことはない、この場面を見ている自分たち視聴者にしても、まったく同じようにしているではないか、規則的に並べられた座席というものに座り、いかにも従順に静かにスクリーンのほうを向き、お利口な視聴者然として映像と音の流れを享受し続けているではないか、と気づかされるわけで、疑いようもなく、《人間が横並びになって取る同一の身ぶり性》に自ら嵌り込んで、スクリーン上のE-girlsの同構造の運動を眺めていたことに愕然とさせられるのである。

人間は、スクリーン上や芸術のオブジェにおいて、あるいは体操やスポーツ、軍事行動などの場面で見せられるのでないかぎり、同じ姿勢や身ぶり、動きで大勢の人間たちが並ぶことから、何か異常なもの、面白いもの、非日常のもの、目を惹かれてやまないものなどが発生するものであることに気づきづらい。社会は、どのような微細な局面においても、一定パターンに複数の人間たちが嵌るのを強いてくるものだが、特に身体的なかたちを取らない場合でさえ、そうした強制に例外はないということに、人間はじつに気づきづらい。芸術や芸能という装置は、本来、それを一気に気づかせる拡大鏡としての側面を持っているが、いわゆる芸術性の度合いが強まりすぎ、それらがあまりにソフィスティケイティドされてしまっている場合には、そうした装置性が隠蔽されてしまうため、本質的な人間社会批判性が和らげられてしまう。往々にして、『謝罪の王様』のような、芸術性の度合いの緩和された粗いドタバタふうのコメディーのほうが、人間社会批判のための装置性を露骨に取り戻しうるのである。
                                

2015年5月7日木曜日

ユーグ・カペー、捏造人事と人事ロンダリング

 カぺー朝の祖ユーグ・カペーHugues Capetは、9877月、ノワイヨでの会議で王として選出され、ランスReimsの大司教アダルベロンによって聖別された。
 17世紀史の大家ながら、正確で詳細な名著『フランス史入門Initiation à l’histoire de la France』を書いたピエール・グベールPierre Goubertによれば、数週間にわたるtractations、すなわち闇取引の後に、西フランクことFranciaないしはFrancie12人ほどの重要な領主たちや君主たちが、アダルベロンに焚きつけられて、自分たちのうちのひとりであるユーグを「王」に仕立て上げるべく、この選出を決定したものという。
 あだ名の「カペー」は、この男がカッパcappaを着ていたからで、これは高位聖職者が儀式で着用するマントのことである。今ふうにくだけた言い方をすれば、カッパのユーグ、カッパばかりいつも着ているユーグ、という程度の呼称である。
 彼は権勢のある家柄の出で、パリの領主たちとフランスの君主たちの血の混じるところに生まれた。祖先たちは侵略者ノルマン人たちを打ち破ったり、カロリング王朝の最後の王たちと張り合って、二度にわたって地位を奪ったりという勇名を轟かしており、時代に応じて、エーヌからロワールに及ぶ広大な土地や森林を手中に収めたり、支配したりしていた。
 ユーグという名は、当時はビッグネームで、教会に支持され、コンピエーニュからオルレアンの間に散らばる土地を私的な領地としていた。とはいえ、肝心の自分の臣下たちが多かれ少なかれ追いはぎや山賊のたぐいであった時代、どうにかこうにか領地を駆けて見まわってみるのがせいぜいで、領主とは名ばかりのひ弱さといったら、お話にならなかった。
 じつはこのひ弱さこそが、古来、「王」にはいちばん弱いヤツを立てておけばいかようにも利用できるとの鉄則どおり、他の領主たちや君主たちに注目され、最初のフランス「王」の捏造に好都合この上なしと見られたわけで、ユーグにとっても幸いし、この上なく地味に、努めて目立たないように、カペー朝誕生と相成ったわけである。
こうしてカペー朝初代の国王となったユーグは、面白いことに、3か月後にはすぐ、息子のロベールを王位に関与させている。オルレアンでロベールを聖別させ、すべての大領主たちに認めさせたのだ。
自分はといえば、oint du Seigneur(神に聖別された者)、quasi-prêtre(準司祭)となり、上皇的な立場とでもいうのか、しっかりと国王を演じるのからは、早々に距離を取ることにしている。
 歴史の授業で概括的に覚え込まされると、あまり面白みのない人物ながら、この程度だけでも拡大鏡で見始めると、ユーグ・カペーもなかなか面白そうな人物に見えてくる。

 個人的には、ちょっとしたエピソードが実生活上であったため、ユーグ・カペーをめぐるこんな事情はいっそう面白く見える。
 関わりのある大学で、年齢差別を禁じる雇用対策法第10条への明白な違反が行われ、採用人事において大がかりな不正が行われたのだが、その時に不正採用されたのが、カペー朝の研究者であった。なんと、政治学・政治史の教員として、専門分野の論文や業績も全くない、西洋史学の特殊分野の研究者を採用するというトンデモなお友達人事がなされたわけだが(もちろん、こんなことは枚挙に暇がない)、ユーグ・カペー擁立の経緯を見れば、捏造人事において、この研究者がいかに適任であったかがわかり、面白いことこの上ない。
 問題の大学は、しかも、採用にあたって姑息な迂回措置をとり、人事ロンダリングを行った。ユーグ・カペーが息子のロベールをすぐに王位に関与させているところなど、王位ロンダリングの嚆矢とでもいうべきで、どうしてどうして、今回採用されたカペー朝研究者は、この点からもなかなかの適任であったのか、と思わされる。

 

2015年5月3日日曜日

イタリア連邦体制期のローマの支配方法

 イタリアに攻め込んだ百戦錬磨のエピルス王ピュロスをクリウス・デンタトゥスが撃退し、その勢いに乗って南イタリアのルカニア地方も征服したB.C.275年の時点で、ローマのイタリア支配が達成された。
 ここでの有名な支配の仕方は、現代でも他国・他民族支配方法の基本となっており、支配地域から兵員を吸い上げる優れた方法なので、振り返っておく価値がある。

 ローマ領とした地域は、すべてがローマ国家の領土となるわけではない。シネ・スフラギオ(投票権)のないローマ市民権を与え、各都市の自治を認めて、ムニキピウム(自治都市)とする。ムニキピウムの市民を徴兵し、ローマ軍に従軍させる。
 南イタリアのギリシア都市など、遠方の都市共同体の場合は、独立を保たせたまま、フォエドゥス(条約)を結ばせ、ソキイ(同盟市)として、実質的なローマ支配下に入れる。ソキイには定まった数の兵員提供を義務付け、同盟軍を組織させる。
 支配下に入れた地域を併合せず、破壊もせず、独立を保たせたまま、あるいは自治を認めたまま、兵力を提供させる方法で、文化面には手をつけず、社会構造や政治機構にも極力手をつけない。太枠のローマ連邦拡大や維持へと各都市や各地域を方向づけようとするものである。

 これとは違って、戦争で勝利した地域を国家が没収し、公有地とする場合もある。貴族に委ねて耕作や牧畜に使用させ、土地使用料を国家が吸い上げたり、国家管理のコロニア(植民市)を建設したりする。
 土地所有農民となるのを望む平民をコロニアに送り込むのだが、入植者はローマ市民権放棄を強いられ、通商権や通婚権のある準市民権のラテン権に移行させられる。ローマ出身の平民であっても、支配都市の市民のステイタスに格下げする措置だろう。国家組織は、成員の平等化とともに、つねに格差付けや階級付けによる不平等化をも行わなければならない。人間の集団にあっては多様な仕事や作業が必要とされ、全員が同質・平等では自発的従事者が減る領域もある。巧妙に不平等化を創出することで、一定数の人員を不人気な労働に導くのは、国家運営の要事である。

 戦後から現在に至るまでのアメリカの対日戦略は、より洗練されているとはいえ、ローマに淵源を持つ方法論にもとづく。戦争放棄憲法を持たせて、ある時は軍事力を極力削ぎ、ある時は憲法に矛盾した軍事化を進めさせ、次には戦争放棄憲法を外させる。戦争終結時点からの柔軟な複数のシナリオにもとづく支配が続いているだけで、日本が今になって、アメリカ連邦体制の軍事的一地域であることから逃れようとするのは非現実的である。独立国家としての独自な平和路線を追求することは、国内に張り巡らされたアメリカの支配網の存在により、児戯に等しい。基地や莫大な上納金を提供し続けながら、まだまだ長期に亘ってソキイ(同盟市)であり続ける他はない。
 しかし、経済問題や身分問題の無限のうねりを血液とするあらゆる組織や国家は、それが、指令・統合・分配等の作業を維持する当面の機構のまま健全に機能し続けるかぎりにおいて、まさにそのことによって確実に疲弊し、ゆっくりと崩壊の道を歩んでいく。消滅しないローマなど存在し得ない。大国や強大な覇権の分解過程については、ローマやヨーロッパ史よりも、古代メソポタミアの諸国の興亡や中国史、アジア史がいっそう鮮烈に教えてくれるかもしれない。


B.C.52年のガリア、B.C390年のローマ

 フランス史によれば、ガリアに攻め込んで来たローマ軍とガリア人の間でB.C.58に戦争が始まったことになっている。
ローマ軍を率いるカエサルはB.C.57年にはアミアン北東のネルヴィアンとベルギーを降し、B.C.56年にはブルターニュ半島の現在のロリアン付近でガリアのヴェネテスの船団を撃破、B.C.55年から54年には、ガリア人と同盟しているブルトン人征伐を英仏海峡を越えて行っている。
そうしてB.C.52年、有名なアレジアAlésiaの戦いで敗北を喫したガリア人軍隊の長ヴェルサンジェトリクスVercingétorixウェルキンゲトリクス)の投降に到る。ひとり捕囚の身となったヴェルサンジェトリクスはローマに送られ、ろくに空気も通わない暗い牢獄に6年ほども閉じ込められた後、カエサルの凱旋式の際に処刑されたという、これも有名な話が続くことになる。
もっとも、ヴェルサンジェトリクスの運命については、最近の研究においては、処刑されなかったのではないかとの説も出ている。
ともあれ、フランス史を読んでいるかぎりは、ローマの一方的なガリア攻撃に果敢に戦ったヴェルサンジェトリクスとガリア人たち、との印象を受けやすい。

だが、ローマ史の側にまわってみるとどうだろう。
B.C.753年のロムルスから始まる初期の7人のローマ王たちの建国時代の間に、さまざまな基礎構築や改革を経験した後、さらに共和制の成立、ユニウス・ブルトゥスによるエトルリア人王の追放革命、対外戦争などを経て、身分闘争に入って揺れ動き、ようやくローマ法の萌芽となる12表法の公示まで漕ぎつけたところで、今度は、塩や穀物の交易ルートの支配権をめぐるエトルリア人との戦いが起こる。
ようやくエトルリア人の都市ウェイイをB.C.396年に陥落させ、戦利品である土地を平民たちに分配して国内が安定したのもつかの間、B.C390年には、後代のハンニバルさながら、アルプスを越えてイタリアに侵入したガリア人にアリア湖畔で敗北し、ローマ市を占拠され、略奪されるという事件が起こっている。
かろうじてフリウス・カミッルスの活躍でガリア人を撃退したと伝えられるが、この敗北に懲りて、ローマはその後、態勢を強力に立て直し、ガリア人の再度の侵入を阻むことになる。ローマにとって長年の敵であったエトルリアは、しかし、ガリア人の侵略によって決定的な痛手を受け、その後、北イタリアはガリア人の定住地となってしまう。

つまり、330年以上も前に、ローマは先にガリア人の攻撃を受け、屈辱的な敗北を喫していたわけだ。カエサルがこの歴史的事実を忘れていたはずはないだろう。
人類において、国家間や民族間の相互の侵略や吸収が止むことなどあり得ないのは歴史がたっぷりと証明しているが、330年も経て決定的な報復を遂げたローマの精神には、学ぶところがあまりに多いというべきだろう。どこぞの国のように70年やそこら大国の属国になった程度では、歴史においては、まだまだ、なにも決するわけではない。

もちろん、ガリアとローマとのこのせめぎ合いから学ぶべきことには、歴史はつねに、少なくとも数百年程度の長い尺度で、双方の側から見て照らし合わせるべし、との教訓も含まれている。