2016年10月17日月曜日

ジョルジュ・ルフェーヴルのアリストクラート層概念


 ジョルジュ・ルフェーヴルGeorges Lefebvreは、『革命的群衆Foules révolutionnaires』の中で、第三身分tiers-étatに属するとされる者たちの心性について、「均一的なものとはほど遠かった」[]と書いている。
 これは、「第三身分」などという視点によりながらフランス革命前夜を見ようとする者には貴重な指摘で、遠い時代を観察する際に陥りがちになる安易な概括化にブレーキを掛けてくれる。
「農民たちは、都市民たちよりもはるかにアンシアン・レジームの重圧に苦しんでいたのであり、彼らは領主とむき出しの形で対峙している。飢餓ともなれば、特権階級や国王役人に対する反感はいっそう強まるが、それは同時に、貧者と富者、消費者と生産者、都市民と農民とを対立させることによって、第三身分を解体する方向に作用する」。[]
 貴族、僧職、第三身分といった明瞭な階層づけは、粗い見取り用の網とはなっても、この網で掬ったイメージは決してそのままは使えない、というジレンマに追われ続けることになる。
 しかも、貴族といえば、フランス語で言うならばノブレスnoblesseであり、アリストクラスィaristocratieだとすぐに即断して粗く考察を進めようとしてしまいがちになるが、これについては二宮宏之が注意を発してくれている。
「『アリストクラート層』aristocratieとは、政治的・社会的な支配階級を指している。身分的には貴族と聖職者を主とするが、上層ブルジョワも含まれるのであり、貴族身分noblesse即アリストクラート層というわけではない。また、聖職者身分ではあっても、小教区の司祭など下位聖職者はアリストクラート層には含まれない」。[]
 二宮は、ルフェーヴルの使用によるアリストクラート層概念について述べているわけで、これは、他のフランス革命史家たち皆に共通する概念規定ではない。しかし、このルフェーヴル的アリストクラート層概念を用いて眺め直してみると、「貴族」や「第三身分」といった概念を使用するだけでは見えづらいものが感知されてくる
たとえば、エマニュエル・スィエスEmmanuel Sieyèsは、革命前夜に、シャルトルの司教代理(1780)、司教座聖堂参事会員(1783年)となり、第三身分としては「望みうる最高の行政職ポスト」[]に就いたばかりか、1787年から1788年には、オルレアン州議会の聖職者代表となっている。これは、彼がアリストクラート層に入ったことを意味している。『第三身分とはなにかQu’est-ce que le tiers-état ?』を書いている40歳のスィエスは、職務上はけっして、「アリストクラート層には含まれない」下位聖職者ではないことになる。
 他方、正真正銘の貴族でありながら、末子であった20歳前後のシャトーブリアンFrançois-René de Chateaubriandは、前途を決められぬまゝ、革命前夜パリに出て、貴族としての職を得るべく、兄の助けを得てヴェルサイユ宮殿に赴き、ルイ16世やマリー・アントワネットに会いながらも、そこから戻れば靴下売りなどをしてかつかつの生計を立てている。家柄や兄の地位を切り離して彼個人を見れば、実質的には、「アリストクラート層には含まれない」という状態だったと見なければならない。
 これに加えて、30代半ばに司教となったタレイランCharles-Maurice de Talleyrand-Périgordの場合などは、司教のような高位聖職者になってもならなくても、シャルルマーニュの末裔であるペリゴール伯爵の直系子孫の大貴族であるため、一度としてアリストクラート層から離れたことはない
 
  


[] .ルフェーヴル『革命的群衆』(二宮宏之訳、岩波文庫、2007)、P.35
[] 同書、pp.35-36
[] 同書、pp.79、訳注(二二)。
[] シィエス『第三身分とは何か』(稲本・伊藤・川出・松本訳、岩波文庫、2011)、p.224

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